周辺散策


市川四中で学んだ時代に、通学や、仲間と元気に走り回ったり遊んだ時の思い出として、心に残っている場所や景色があると思います。

ここでは、そんな場所の写真や資料を掲載しています。


【現在の中山法華経寺】2024/4の桜咲く境内 (5枚)

 撮影:上原 茂さん(3組)

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【江戸時代(1830年代)の四中周辺の様子】

「続江戸名所図会を読む」東京堂出版 著:川田 壽氏 より 

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 ※竜王と書かれた場所が子供の頃「竜池」と呼んでいた場所で、その左上の木が茂っている高台辺りが四中の場所だと思われます。

 ※図会の中に「中寺」と書かれている場所が多くありますが、現代表記では「寺中(じちゅう)」であり、「1 寺の中。寺の境内。 2 大寺の境内にある小寺。塔頭 (たっちゅう) 。」の意味です。

妙法華経寺は、日蓮宗に属し、かっては同宗五大本山の一つであった。

下総の国の豪族千葉氏に仕えた富木常忍が、日蓮に帰依し、自らの館に法華堂を建て、寺としたのが始まりとされる。常忍は後に日常と号している。

左右にのびる道は千葉街道(国道14号線)である。参道に入ると、賑やかな門前町が続く。

こんにゃく料理を名物にしていた。

大門(総門)がある。建造の時代は江戸中期といわれる。黒門とも呼ばれている。中央上部に掛川(静岡県掛川市)城主太田資順が書いた扁額がかかっている。

さらに進むと朱塗りの二王門(山門)があり赤門とも呼ぶ。正中山の字は、本阿弥光悦の書といわれる。光悦は刀剣の目利きをはじめ、書・絵画・工芸・陶芸・彫刻・造園・茶道などを極めた芸術家で、本寺を墓所としている。

法華経寺へ至る参道の右手に、山林と田野の間をくねくねと奥へたどる道がある。

その先に奥の院、日常上人の墓がある。この場所は、日蓮を支援し、日蓮の危難を救った富木常忍の館があった所で、今も土塁の一部が残っている。さらに奥に進むと、七経塚という古墳があった。

戦国時代の頃、難を避けて京から地方へ逃れる文化人が多かった。連歌師の宗長もその一人で、永正六年(1509)江戸を経て、今井の渡しで隅田川を越え、馬で真間の継橋をわたり、本寺に一泊している。

絵にあるのは、その際に詠んだ歌である。

 杉の葉や あらしの後の 夜半の月

竜渕橋を渡ると正面に五重塔がある。元和元年(1615)加賀藩主前田利光が寄贈したものという。

その左に鎮座の大仏がある。享保四年(1719)の造立である。

五重塔の右の道路わきに泣銀杏がある。開山日常上人の養子日頂は故あって勘当され、そのために義父日常の死に目に会う事ができず、悲嘆のあまりに樹下に泣き伏したという。

鼓楼の左に豪壮な本堂がある。祖師堂である。屋根に三重の段があり、特異な形状をしている。

竜王とあるのは、八大竜王を祀る池で、竜王池という。おそらくは湧水池であったと思われる。溢れる水は川となって流れ出て、鏡池という日蓮ゆかりの小池をつくっていた。

左手に小山がある。祐師山と呼ばれている。

法華経寺二世日祐上人の墓塔が置かれたことからついた名で、傍らに日高上人の墓もある。日高は、中山の領主太田乗明の子であるが日高も自分の館の中に堂をつくり本妙寺と称した。後に常忍の法華経寺と合併して法華経寺となったものである。

広い寺域には、法華経寺を中心にした多くの塔頭があり、日蓮宗の聖地を形成している。

法華経寺には、たくさんの貴重な建造物や古文書などがある。中でも日蓮自筆の「立正安国論」は随一のものであろう。四八歳のとき、鎌倉幕府の執権北条時頼に建白したものの控えである。

妙法華経寺は、いく度かの盛衰はあったものの、宗祖の教義に従い、厳しい修行の道場として今も法灯を守り続けている。


【周辺地域、地名の由来】

「郷土読本 私たちの市川」より。

 市川毎日新聞社S30年9月発行・非売品 小学校の副教材と思われる。

(HP管理人が兄からもらい保管していた冊子。元本は2019年に市川図書館に寄贈)

<<市川>>

市川という地名がおこったことについて、昔からいろいろな説があります。市川の西の端を流れている江戸川が坂東一の大きな河であったことから、「一川」といわれ、それが後になって「市川」になったともいわれています。

また江戸川を利用して舟に荷を積んで集まった人たちが「川市」といって毎月何回か、市場を開いた事から「市の川」と呼んだのが「市川」と呼ぶようになった始めともいわれています。

市川という地名は、山梨県にも茨城県にもありますが、全て昔の国府の址と思われる近くにあります。しかも、その土地の近くには必ずきれいな川が流れております。

私たちの郷土「市川」もやはり下総の国の国府があった国府台があり近くに江戸川があります。この事から、「市川」という地名は、国府のあった当時から長く使われた事が考えられると共に、川に面した「川市」のたった町から「市の川」と呼ばれ、これが「市川」といわれるようになったと考えられます。

昔の書物の中に、初めて「市川」という名前が見られたのは、室町時代に書かれた「義経記」という書物が最初とされております。

<<中山>>

中山の地名は、法華経寺の山号である、正中山の文字からとったものと中山町史に記されておりますが、中山の名は、すでにその以前からあったものと思われます。

東胤頼が頼朝に献じた歌の題にも「中山」の地名が出ておりますので、鎌倉時代の始めにはすでに中山と呼ばれておりました。

<<若宮>>

若宮の地名の起こりについてもいろいろな説があります。

日本武尊が御東征のおり、この地にお宿をとられた事から「吾我巳家(わがみや)」又は「倭神御家」と呼んだという伝説があります。

又一説には、後の世に「誉田別命(ホンダワケノミコト)」を敬ってまつった事から若宮という地名が生まれともいわれております。

こうした伝説の地に若宮の地名については、領主富木常忍が、八幡神を勧請して、若宮八幡と呼んだことから、この地名が生まれたという説もあります。

若宮の区域は、北方道、大海道端、第六天後、第六天前、仏屋敷、サスワ、入谷津、田子坂、子の神下、経塚、八幡、七経塚、鳥飼、法六山、三つ又、鼠堂、鼠戸貝柄塚、木戸下、花が谷台、拾三道、などの小字(こあざ)からなっております。

<<北方>>

北方という地名の由来については、いろいろな説が残されております。

関東地方では昔から、野原を開墾して畠にする仕事を「アラク起し」といいました。この「アラク」に対して「ホック」という言葉があります。アラク起しをして作った畠を「ホック」と呼んでいました。この「ホック」がいつの時代にか変わって「ボッケ」になったのではないかという説があります。

北方というのは、藤原公李公を先祖とする閑院家の呼び名であって、この藤原家のある人がこの地に住まっていたことがあります。その時公が剣を館に置かれたのを里人は宝の剣(宝剣)とし尊重し、この村を「にほつけ村」と呼んだのが「ボッケ」の起こりだと言い伝えられております。

また一説には、この付近一帯の豪族であった太田乗明の奥方(北の方)がここに住まわれたため、北の方にちなんで「北方」の名がうまれたともいわれますが、北の方と「北方」とは文字は同じようですが、発音からすればどうして北の方と呼ばず「ボッケ」と呼んだかその点がはっきりしません。

<<高石神>>

元は鬼越の一部であったものが分かれて高石神となったものです。

大多喜の城主、正木内膳亮時総が、めずらしい石を見出してこれを高石神社としておまつりしました。後になって部落の人たちがこの神社を大変信仰しこの神社の名をとって、高石神として、鬼越から独立したといわれております。

しかし、高石神という地名はすでにそれ以前から使われておりました。永享二年千葉胤貞が中山法華経寺の日祐上人に与えた手紙の中に「八幡庄内にて高石神の地を寄付す」とあり、また同年二月の文書にも「下総の国八幡庄高石神社南方、中島内坪付の事」とあるのを見ても、この地名がそれ以前より呼ばれていた事が明らかであります。

これからして考えますと、高石神という地名は石器時代の遺物である石棒をまつった事から出たという説が正しいのではないかという人もおります。

高石神の地域は、深町、宮下、蛇田の字(あざ)を含む非常に狭い地域であります。